『美術手帳』 ART桜画廊個展

三重県立美術館学芸員  東 俊朗
 



 主語としての〈空間〉は畢竟、知の戯れでしかない。〈空間〉という王冠がまず存在するところに王は永遠に不在だ。饒舌というなの不安だけがいたずらに周囲をとびかう。むしろ無形のものの運動とか形あるものの布置を種子として、しかもその種子をいったん殺しながら、くっきりとした姿の述語としてみずからに加冠するとき、〈空間〉はそれをぼくらが感じられる無として現成するといえないだろうか。今井瑾郎のそれは、ぼくに〈空間〉と名づけるほかにない体験をさせてくれる。森有正的にそれをいいかえて〈経験〉といってもよいだろう。素材はL字型の黒い鉄板と光源二つ、そしてまだ空間ではない空間。無限個のアーティキュレイトが可能な、すなわち無限個の空間にひとつの鉄板を置く。またひとつ。床におく、壁に斜めに、あるいは垂直に、あるいは水平に……そのとき無限個の空間からついにひとつの<空間>へいたる素材の組みあわせを、おそらくは作者とは異なる経路をたどりつつ、ぼくらも追体験しながら、ついに同じ場所へ到達するはずだ。ぼくはフィレンツェのあのメディチ家礼拝堂のなかではじめて味わった〈空間〉の経験をおもいだす。もちろんあれはひとまわりもふたまわりも規模が大きかったけれども。それでもあるべきところにものがすべてあるという全一の印象にかけてはそのときの経験も今回のこれも同型であり、要するにひとしいといえよう。 つよい光源のせいで、鉄板の縁の一方が紫に、他方が緑にみえたり、壁ともその前方の空気とも距離の焦点があわないところにうすい青が光ったりしても、その印象は全体の純一に奉仕こそすれ、分裂や障害にならず、そのことが逆にこの「作品」の強度を推測させた。しかし影にかかるそれらは効果を狙うきわどさにみえもするので、ぼくとしては「負」の記号を削りおとしたところにより全一なかたちで生まれる〈空間〉を、これからの仕事において期待したい。








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