『読売新聞』美術作家論
「空間ということば」

三重県立美術館学芸員 東 俊朗



似て空間ということばもまたやっかいなことばだ。たとえばアートが空間の芸術だというそのいいかたからは、それなら音楽は時間の芸術だというかんがえがたやすく派生してくるが、ほんとうはアートもまた時間の芸術だし、音楽は時間とともに空間の芸術でもあるといったほうがただしい。空間はあるのではなく、はんたいにないわけでもない。またあるものがないのでもなく、無いもののぞんざいでもない。くりかえすが、これはとてもやっかいなことばなので、その証拠というのもなんだけれど、平面にしろ立体にしろ「なんとか空間」などと題された作品に空間のあったためしがない。ブランクーシの『空間の鳥』でさえもタイトルがないほうがずっとすっきりする。かしこいひとというより、こういう空間ということばをめぐってほんとうにあたまを悩ませたことのあるひとは、だからさいごから二番目にだいじなことばで題をつくる。

 それでたとえば今井瑾郎さんはということになる。名古屋の白川公園にある巨大なステンレスのモニュメント、『円・景』と名のついたかれの作品がいちばん手ぢかにあって例にひきやすい。屈曲するステンレスのかたちは単純で切れ味がすごくいいから、それをかたまりとしてだけにみてもみごたえはじゅうぶんで、ようするに「作品」になっている。そのあとで、これがまわりの景観のじゃまにならないどころか、かえってそれをとりこんでいることに気づけばもっといいし、よくみると、どこも直線でできたようなこのかたちが身をよじってかすかに円弧をえがいていることに気づくのはさらにいいことだ。なぜか。すっきりできあがってかたちが閉じたとみえたところが突然、そうではなくて、もっとおおきななにかにむかってひらかれた入り口にかわるからだ。おわりでなく、そこがはじまりだった。ぼくらの視線がもつみる/みない、あるいはみえない/みえるというはたらきの活発なインタープレイのあいだからぼんやりと、しかし確実にたちあがってくるおおきな円。それはそこになく、また同時にそこにある。この幻想の円をそのまま空間とよぶことはできなくても、そのことばをうちにふくんだけはいはかんじられるのだ。

 それから今井さんには水銀灯をつかった作品がいくつかある。つよい光とつよい影。はじめはどうしてもこういった仕掛けのほうに注意がいってしまうけれど、だんだんみていくと、ものの影もまたものであるということがわかってくる。そのかたちのなかのもうひとつの(反)かたちと、おもさがうみだす第二の(反)おもさのゆらぎが、すでにそこにある三次元の、いいかえると空間の意識をつよめるから光が必要だった。はじめからそれができるなら光はいらない。かれは立体造形のモネではなく、その狙いはずっとセザンヌ的であり、もっというとジャコメッティ的なのである。ヨーロッパの芸術家の手のなかにあった「かたまり」にかれははじめてすきまを発見した。そういうジャコメッティの彫刻はぼろぼろでまずしいみかけのなかに、ゆたかでひろい空間の一端をしっかりつかんでいる。そのもっとさきにいきたいというのが今井瑾郎さんの願いだとぼくは信ずる。








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