『美術手帳』  美術出版社
 「架空の円」
今井瑾郎




名古屋芸術賞の芸術奨励賞を受賞した今井瑾郎氏がこの春、名古屋市博物館で受賞記念展を開いた。ちなみに、造形作家では同年度浅野弥衛氏が芸術特賞を受けている。なお同償は名古屋市の芸術文化の振興に長年の功績を認められ(芸術特賞)個人、団体に広いジャンルから選出され、六十年度で十一回目をむかえている。鉄で組まれた溝状の円形空間に物質的な手ざわりの水銀灯の光を配し、一種無限的な対比と、空間の存在感を現前させたメインの作品をはじめとし、今回の展覧会は、彫刻家としての視座を明確に出し、それまでのインスタレーション的な展開を凝縮したかのような簡潔で切り口の鋭い立体、ドローイングによって構成されている。
 今井氏自信に自作をめぐってコメントをいただいた。

「白と黒」

 桜の咲く季節にいつも出合えないのが美術家なのであろうか、さほど桜にこだわるわけではないが、季節の確認はしておきたいことも事実である。今年は個展が4月6日に終わったこともあり、3年ぶりに夜桜を見る機会をえた。なまぬるい空気のなかで冷酒を飲みながらの夜桜は、日の移ろいのなかの強引な静寂さ、不気味な気配と時間のエロティシズムさえ感じられる。

 翌日、知人の死が知らされる。四十四才男性、死因は急性心不全とのこと、あっけない頓死であった。死が日常レヴェルであることを思い知らされる。それにしても、桜と死は文学において語られてはいるが、現実として生と死の象徴的な側面に出合うと、やはり驚いてしまう。

 私はドローイングにおいて白い紙に黒色のクレパスを用いている。白い色と死の象徴性の関係性の研究があるが、学究的なことはさておき、他のジャンルにおいても死の瞬間を黒で表すことは意外に少ない。ほとんど白色として表わしている。ミッシェル・セールは「白色は存在の存在」ともいっているが、私が白色を用いるのは、白色が拡散的であり、存在の離脱としての存在のように思われるからだ。また、黒色をその対極としてとらえることに無理があるとしても、物質のもつ色素の混色は最終的に黒に近づくことは事実である。黒は存在の集中として、求心的であるように思われてならない。生における生成の混沌のなかで、求心としての古層の源流を辿り、黒い象徴性に、生におけるカオスのなかの基調を感じる。いずれにしろ、白と黒は互いに離反しえない関係としてある。私の日常も白と黒とのアンヴィバレンス(両面価値)のなかにありそうだ。

「まるいこと」

 先日、ある友人の指揮者が「バッハの曲は、キューヴィックな箱を複眼的に眺め、回転しながら進んでいく円運動である」と語った。たしかに、ゴールドベルク変奏曲(睡眠薬の代用としてつくられた曲)は、はじめのテーマが三十のヴァリエーションのあとにもう一度くり返される。つまり、エンドレスな構成だからこそ円運動を意識せざるをえないのである。ゴッホは「人生はおそらくまるく完全だ」と言った。ポール・セザンヌは「自然は球と円錐と円柱で構成される」と言った。これを立面図としてみれば、円・三角・四角であり、さらに平面図としてとらえれば、円に集約される。その他のジャンルにおいても例をあげればきりがない。偉大な彼らはさておき、実際、絵画というものが世界を夢想し、知覚し、時空間を句切りとる枠だとしたならば、いつの時代にどのようにして四角形になったのか不思議でならない。私は過去の何回かの浜松野外展において、四角形で世界を見なかったし、現実にそのようには知覚されないことを経験した。もともと空間というものは、意識し、意図することにおいてはじめて開示される雑音のように不確かなものである。そして、この雑音のようなカオスを知覚するなかに現出する基調が問題なのである。それは架空の円として意識のうちに表出するからだ。つまり現実を反転し、虚構化された現実のなかにみるもう一つの「景」なのかもしれない。








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