『生け花龍生』掲載
「空間の表皮に向けて」
美術評論家  中村英樹
 



 八月三十一日、学校の夏休みも大詰めを迎えた日の午前十時過ぎ、予定よりちょっと遅れて国鉄東海道線舞阪の駅に着いた。浜松の二つ西寄り、浜名湖中の弁天島駅の東隣りと言えば、おおよその見当はつこう。新幹線ができた今、普段は、湖水や養鰻場を見ながら、あっという間に通り過ぎてしまうところである。一時間に一本程度という不憫な普通列車を降りても、タクシーがない。海の方向と思われる方へしばらく歩き、松林の向こうはきっと海だと信じて急ぐと、幅広い自動車専用道路をくぐって、やっと砂浜に出た。

 すでに二十分は立っただろう。あいにくの雨模様で見通しがよくない。広い海岸線の遠くに、今日の目標らしいテントがかすんでいる。駅で偶然出逢った知人の女性と、直線状に進んだら早く行けるなどと話しているうちに、この企画に協力したギャラリー葉(東京・銀座)の人たちの顔の輪郭がはっきり見えてきた。彫刻家・今井瑾郎が六月に同画廊で展示したプランを実行に移そうというのが、今回の試みなのだ。プランにも、この今切海岸の写真を使用した。西の彼方には浜名湖が遠州灘へ出る今切口があり、そこにかかる浜名大橋が何か奇妙な風貌を見せている。見上げると、灯台の白が印象的である。

 もう杭打ちを始めていた。今井瑾郎の計画は2つだ。長さ五メートルのアルミ合金製円筒パイプを海岸線と平行に支柱として2本並べて立て、その間に同じパイプをワイヤーで水平に吊る。ある視点からはそれが海の水平線と重なるようにする。三本のパイプは、多くの杭とワイヤーによって緊張状態で固定される。これが午前中の予定。午後は、一旦全体を取り壊し、改めて、水平であったパイプを垂直に吊る。ある視点から見ると、垂直パイプの下端が遠方の水平線に接するように見える。言葉にしてみれば、これだけの単純明快な事柄であるし、写真の上にアイデアを描き込む場合には、限られた視界と風景の平面化とによって観念的な側面が強くなる。だか、実際の現場は、先ずもって、取り留めのなさから始まる。つまり、最初に杭を打つ地点は、広い砂浜のどこでもよい訳である。そうなると、決めるのに理由がなく、不安な気持ちになるものである。何となく照れながら定める以外にない。今井は、ボラ釣りの人たちが少ない場所をという消極的な依り処に従ったようだ。だれがやっても、結局、そういうふうにしか決めようがない。予定通りに作業が進められる間に、時折それを遠くから眺めてみると、実に小さく他愛のなく目に映る。大声で喋りながらアシスタントの物が動き、力一杯振りおろす槌の音が周囲に響いているはずであるのに、まるで無言劇を見ているみたいに何も聞こえてこない。完全に音を消された世界に投げ込まれたみたいだ。

 無限定で茫漠とした広がり。それは、海や平坦な海岸に典型的に現れはするものの、野外の自然全般に関して当てはまる事である。美術作品の野外展示には、自然のスケールの大きさにどう対蹠するかという問題が、否応なく付きまとう。人工的な句切りを取り払った野外の作品では、自ら求めて無限大のスケールと付き合おうとしているのだから、一層避けて通れないことになる。結論は最初から出ている。もし個人の表現が自然の大きさと同じ次元で競い合おうとするならば、どんなに頑張ってみても勝ちめはない。橋梁や灯台などの土木建築技術でさえ、最終的には自然に飲み込まれる。バベルの塔が好例だ。だから、美術作品以外の人工物をもってきて美術作品より大きくて迫力があると主張する通俗的な冗談も五十歩百歩に過ぎない。 物理的な大小とか、遠くからでも目立つ・目立たないといった判断基準は、ここでは適当でない。たとえ、ピラミッドや万里の長城が、その壮大さゆえに感嘆の的になったとしても、本質的には、物理的な大きさが自然と人間との関係を表示しているからであって、自然を征服したせいではない。野外での作品展示に必要なことは、無限の空間をそこへ集中させ、集約する努力であろう。わずかな素材を用いて自然をそこに取り込んでしまう仕事である。石や植物といった自然物、あるいはかすかな人為によって、表立ってそこに現れていない無限を示そうとする傾向は、昔から日本にあった。今井瑾郎の軽合金を使用したメカニカルな感じのプロジェクトも、自然との対決ではなく、1点への自然の集中という角度から見ない訳にはいかない。

 彼の願望は、遥か彼方の水平線を手元に招き寄せ、手繰り寄せようとする。遠景である本物の水平線を近景として再現し、確かな知覚に置き換えるのである。彼方の水平線に手前の垂直線を突き立てようとするのも、水平線の手応えを求めてであろう。注意したいのは、自然のなかでの制作といってもそれが自然への回帰を意味しない点である。日本人は自然に帰順する心を持つとよく言われるが、事実はそうではあるまい。自然をいけどりにする仕掛けという作為に満ちている。自然と対立はしないけれども、人間の営みを自然の中へ埋没させるのでもない。今井の場合も、その種の仕掛けである。パイプは一見宙に浮いて見えるが、遠目にワイヤーが見えにくいだけのことであって、本当に空中に浮くはずがない。それがフィクション即ち仕掛けであることは、両脇の2本の支柱がよく物語っている。このようにして、かれは、空と海とを短い線分のうちに恐縮させ、そこにスケールの大きさをはらませいようとする。そして、ワイヤーの力学が自己目的的なテンションの面白さにだけ終始しないところに、これまでのギャラリーでのかれの立体作品をしのぐものがある。

 それにしても、自然は油断ができない。午後垂直パイプを設置しようとしている最中に、急に空が暗くなり、雨脚が激しくなって、雷鳴がとどろいた。水平線を気にしているうちに、上空からの不意打ちである。平らな場所に金属柱では危険この上ない。作家本人が一番初めに逃げ出した。人間の仕掛け の前に一筋縄で行くような自然ではないらしい。ちなみに、日本にもアメリカにも雷を扱ったプロジェクトが最近登場した。水平線に関しても、自然は、色々なアプローチの仕方を待ち受ける。今井は水平線と平行する海岸上の直線を基本にしたが、海岸から海中へと水平線に向かって突き進む直線を想定できなくもない。それに気づいたのは、弁天島にある地中の赤い鳥居のおかげである。直線が現実に引かれていないのに、視線は鳥居をくぐり抜けて水平線へと導かれる。海から陸上の神社へというベクトルも考えられようが、人の目は逆をたどり、海へ向かう空間表現としての鳥居が立派に成り立つ。

 そうしてみると、今井の関心は、まだまだ尽きぬ鉱脈へとつながっていそうだ。夕方になってやっと雨が上がり、薄日がもれてきた。この町の街道松とともに珍しくも取り残されている自然海岸の砂浜を、野外展には格好の場所だと思いながらあとにしたのだった。実は、今井のほかに数名の作家が、この日、それぞれの制作のために参加していた。








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