『みずゑ』   美術出版社
個展から「明晰な視覚性」「空間・影」「空間の表皮に向けて」

美術評論家  早見暁



 「空間・影」というタイトルをつけられた今井瑾郎の作品は、一見したとき、技巧的に洗練された、よくできた現代美術風の装置のように思われるかもしれない。とりわけ、最近の美術にみられるような、色彩(プリミティヴで俗悪な)や材料の質(低次元の素材性や高度な媒体性まで)に対する執拗な関心とは、ほとんど無縁のところで作品がつくられているような点が、なおそう思わせたりもする。だが、むしろかち反状況的―もっと正確に言えば反時代的な、すでに死滅してしまったと考えられていたような、認識や表現の方法を、今一度有効な手段として持ち出してきているところに、この作家の関心の凝縮度や真摯さを感じることができる。

 端的に言って、今井の「空間・影」は、画廊の因襲的でもあれば中性的でもある空間を、今一度、現実の三次元的空間として把握して、この高さと幅と奥行をもった、それ自体としてはとるに足りない、あるいはそれ自体としては在るようにしか在りえない物体のような空間を、明晰な視像として眼に見えるようにしようとするものである。空間というのは、言いかえれば自然のことであり、この自然と、私たちの視覚との接点、あるいは統合される地点を明らかにしようといている。しかし私は別段目新しいことを言っているわけではない。自然を前にして絵を描いていた画家が、自然を一つのモデル、一つの契機として再現的に描くのを止めたその地点から、今井に限らず、こうした現実の空間を相手どった作品は、始まっているのだと言えばわかりやすいかもしれない。そして、かつての自然主義的な再現的絵画が、自然をそれとは異質な、そしていかにもイリュージョニスティックに画布に視像として再構成したのとは違って、自然に直接的に、その同じ自然を視像として再構成しようとしているわけだ。

 たとえば、昨年の8月末、浜松市の今切海岸で行なわれたと伝えられている今井の行なった試みがある。それは海岸の砂浜で、アルミ合金製のパイプを水平線上に重ねて吊るしたり、あたかも水平線上に突きたてたかのような光景を作り出すものであったようだ。このような試みは当然のことながらいかにも虚構的であって、その虚構性をシュールレアリスト風に応用する才覚のあった関根伸夫は版画にし、また、同じようにその虚構をもう一度虚構化する力をもつ写真によって、むしろ概念的な実在性として作り出したのは植松圭二だった。今切海岸でのその試みは「空間の表皮に向けて」と題されていたようだが、こうした試みは、現実の場においてよりも、写真に撮った方がより効果的である。しかし、それとてもとりわけ新しいことなのではない。いや、新しくないことが問題なのではなく、私が指摘したいのは、自然を描く絵画との類縁性についてであった。

 メルロー=ポンティは次のように記したことがある。「……〈視る〉ということが〈離れて待つ〉ということであり、そして絵画とはこの奇妙な所有権を存在のあらゆる象面におし拡げるものだからである。(中略)絵画は通俗的な視覚が見えないと信じているものに〈見える存在〉を与え、世界のヴォリュームを手に入れるのに『筋肉感覚』などを借りる必要がないようにしてくれる。この貪欲な視覚は『視覚的所与』を超え、存在の<組成>に向かって―つまりきれぎれな感覚的伝達が、単にその句読点か区切りにすぎないような、また人がいえに住みつくように眼がそれに住みついているところの存在の<組成>に向かって―開かれているのである」(『眼と精神』)。

 画家が自然を「離れて待つ」ように、今井のこの「空間の表皮に向けて」は、本来一つの連続体としてある空間を、日常的な知覚によるその連続性の分断を克服して、取り戻してみせようとするものであった。つまり、遠くと近くを一つの連続性として示すのであり、それによって、互いに隔てられていたかに見えた海の向こうとこちら側は、そうした分断が克服されて、離れていながらも、一つの視像として、連続体として、手許で所有されることになる。 自然主義的な再現的絵画が放棄されたのは、絵画が「自然に向かって開かれた窓」としてではなく、自然そのものとして存在しなければならなくなった時である。「絵は今や私たちの身体と同じ空間の秩序に属する実体となってしまった。絵はもはやその秩序の想像された等価物の伝達手段ではない。絵画空間はその『内部』を失って、すべてが『外部』になってしまった」(C・グリーンバーグ)。こうしたところに、再現的な絵画と今井のような作品が交わり、すりかわる理由がある。しかし、芸術作品が自然と同じようなオブジェになったがゆえに、自然が芸術作品になるわけではない。自然はなお、もう一つの自然―視像として、オブジェとして構築されなければならないのだ。今井のような作品は、自然をより直接的に視覚化=所有したいと欲しているわけだ。そして、今井の作品は、そうした欲求をより明解に視覚的に実現する方法が、いくぶんか際立っているのである。「空間・影」も、こうした空間の連続性を一つの視像にまで高めようとするものである。ここでは、前述したような現実の三次元的空間に、鉄板や鉄線、鉄の円筒などが置かれ、それらが一つの光源から発する光によって、床や壁に影が投影されている。影などと言えば、どことなく形而上学的な瞑想を誘い出すように思われなくもないが、ここでは、不動の凍りついたような沈黙が支配していて、そうしたセンチメンタルな思い入れを拒絶している。影と鉄線や鉄板などの物体とが、虚と実という関係から開放されるように、壁面で連続されているのが特徴的である。

 まず、ほぼ見る物の目の高さより多少高い位置に取り付けられた光源に対して、それに相対する壁際に鉄板が一つ置かれている。そして、それよりも光源に近い位置に一つ、さらに光源から見て右側の壁に一つ鉄板が置かれている。これら三つの鉄板は光源の位置と同じ高さをもっている。この場合、原理的には光源の方向と、鉄板が垂直に立てられている床面が平行していれば、影は光源の光が届く範囲まで、つまり光が無限に届くとすれば、無限に影ができることになる。しかし、ここでの箱状の部屋では、壁面に映る影は、鉄板の高さが同じであれば、光源からの鉄板の位置の遠近に関わらず同じ高さをもつことになっている。このように、影が物体よりも、大きくなったり小さくなったりしないところが、影と物体を、虚と実といった関係を極力排除する要因にもなっている。したがって、前記の三つの鉄板は、壁面で同じ高さの影をつくっている。

 光源に相応する壁の近く、左側には鉄の円が置かれ、それの壁に映る影は、左側の壁のL字型の鉄線の影と接している。前記した鉄板は、光源からの位置の遠近という相違にも拘わらず、壁面上での影の高さが同じになることで、そうした現実的な遠近―間隙を排除して、その現実の間隙をむしろ無化し、虚構と化していたわけだ。それと同じように、鉄の円とL字型鉄線との壁面上で接する影は、現実の鉄のL字型鉄線とを、そしてその間隙を虚構とするかわりに、影を確実な視像にしている。こうしたことが、何を意味しているかはいうまでもないことだが、現実の空間内での物体のあり方、つまり空間的な位置関係という現実(自然)を、影による視覚化によって凌駕し、主体的な視像という自然に高めているところにある。それが、視覚といういわば潜在的な身体―「離れて待つ」という「遠隔作用」を基軸としているところで、視覚的でもあるわけだ。

 さて、画廊のほぼ中央には背の低い円筒が置かれ、その円筒上から、光源から見て右側の壁にL字型の鉄線が伸びてつながっている。この壁面上の鉄線は、床から壁に直角に撮りつけられた鉄板のつくる影の端にあって、その影につながり入りこんでいる。さらに鉄板の影の上端では、L字型鉄線の影によって連続させられているかのように、鉄線が壁につけられ天井に伸びている。

 これと同じような仕組みで、光源により近い床の、光源と円筒と一つの鉄板をつなぐ直線上の位置に、前記の鉄板と同じ大きさの鉄板が横たえられ、その鉄板の上端からL字型の鉄線がやはり右側の壁に伸びてつながり、その壁に斜めに立てかけられた鉄板のつくる影につながり入りこんでいる。そして、その鉄線の壁面上での実際の断絶は、鉄板の影によって償われて、天井に向かって、その壁面上を斜めに伸びる鉄線に連続させられている。

 この円筒とL字型鉄線と鉄板、また、二つの鉄板と鉄線とにおいては、影と物体との連続が図られている。ここでは、最初に述べた二つの鉄板、円とL字型鉄線とが影においてのみ対応していたのとは異って、影と物体との関係が試みられている。前二者が、物体の位置や間隙を虚構に化す視覚化がなされていたのに比べて、この二つでは、位置や間隙である以上に、影と物体という質の違いが虚構化されようとしているようだ。それを通して、そうした現実的な質の相違に打ち克つ視像が作られているわけである。

 そして、もう一つは、床から垂直に立つ鉄板が、鉄のワイヤーによって支えられている。このワイヤーは鉄板を支えるのが主要な役割なのはいうまでもないが、それ以外に壁面上に映るその影は、方向や長さをある点で等質化させてもいる。しかし、それ以上に、このワイヤーが見る物の眼の高さに張られていて、写真でこの作品を見るのとは異なり、眼の中心に位置することで、むしろ逆にその存在が見え難くされているところに、意図してなのかどうかはわからないが、全体との一貫した明快な意図を感じさせるのでもある。

 こうして、「空間・影」は、現実の空間(自然)を虚構に化すことで、それを凌駕するもう一つの自然の秩序―つまり視覚という潜在的な身体によって打ちたてられた視像を明示している。とりわけ、こうした作品は、現実の空間(自然)に比すべき自然を、その自然の中に作りだすのではなく、現実の空間を虚構化することによってであるところに、現実の空間の「想像された等価物」ではなく、自律的な作品とされている理由がある。 ところで、この作品では、光が重要な働きをしているのが特徴的である。光はかつては、物体の空間の量塊性を作り出す重要な手段だった。

 この作品では、鉄板、鉄線という量塊性から遠く、実在性のみが強調される素材が使われ、しかも、モデリングを排除する褐色がかった黒色であるのも特徴的であるようだ。そして、この光は、伝統的な絵画や彫刻におけるのとは異り、物体の形や位置関係を明示するのではなく、むしろその逆の働きをしている。それは、あたかも、一点透視法の視点のように、物体の見方に一つの観点を与えているが、すぐにそれを消し去ってもいる。私が、最初に、すでに死滅してしまったと考えられる方法を、有効な手段として呼び戻してきていると書いたのは、このことを意味していたのである。その光は、現実の空間を秩序化する一つの観点であるには違いない。したがって、それは一つの眼である。しかし、この眼は、伝統的な一点透視の遠近法のように、現実の空間をその眼から遠ざけ、距離をつくり、しかもその空間内の物体に階層的な秩序である位置と意味の距離をつくりだすためのものではない。むしろ、それは、眼というより、一つの視覚として、空間を手許に引きよせるのである。その際、引きよせられた空間は、その空間内の物体同士が一点透視の遠近法におけるのと同じように、階層的秩序をもっているとすれば、何の意味もない。そうではなく、ここでは、視覚の要素主義(部分と部分の統合)が排除され、視覚の全体論的な連続性にみあった、位置や間隙、材料の質の相違を越えた、空間の連続性として、視像が獲得されているところで意義あるものとなっている。そして、それがまた別に、美術の歴史的連続性に連なる作品として、私たちに認めさせる根拠にもなっている。 といえば、この作品をあまりにも過大評価したことになってしまうかもしれない。私がこの作品において最も有意義だと強調したいのは、実は何よりもこの作品がもっている明晰な視覚性―つまり現実を無化し虚構化するほどの視像を作りだしていることである。








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