『現代美術の新世代展』
「空間・影」「空間の表皮に向けて」
(三重県立美術館企画展カタログより)三重県立美術館収蔵
今井瑾郎


 たとえば狭い密室における空間はそれ自体においてすでに充足し、何らかの意識的な方法と行為においてしかその存在は開示されない。そうした空間において私の視覚は重層的で積極性のなかにあるが、なにか感性を抑圧する閉塞状況を意識せざるをえない。だが私ともの・ものと空間、空間と私という関係の相を奥行きのなさにおいて、総体としての質を含蓄した状態において知覚しやすいともいえる。そしてその知覚自体は、作為性という行動空間においてしか空間の現出はありえない、ともいえる。またこの作為性とはものから空間へ、空間からものへという二重のベクトルをもち、相対的な振幅の中において行われ、空間内における現実的実体性としての光と影という現象の総体に関わる主体というように一つの系として集約されない。それは多様に動機づけられた投錨点を内包したものである。まずそのことを認識しておいて空間と影という関係性をもとにして制作をすすめる。

 「空間・影」というテーマは、前述した多様に動機づけられた投錨点、というように空間と影という現象を象徴的な構成としてとらえるのではなく、現実の事実性としての重層的で複眼的な諸関係から導きだされ、関係性の空隙にある一瞬の錯綜したさまざまな系を知覚する主体としての私を中核として、また引力と斥力との分散された諸関係の記述を喚起させるべき反復行為としての操作なのである。ところが結果はたえず微妙な地平の周縁にあり、その姿を所有させてはくれない。

 私はそうした状況において、現象の具体的な視覚化ということを意識するなかで現実の空間秩序と多様なものとの視覚的様相をいったん無化させ、新たな構造の地平を主知的な意識ではなくむしろ始原的に導き出す。つまり空間に作為的な秩序と規定を与えることによってその空間を無化し、虚構と化した現実として新たな視覚に空間が現出するのである。またそのことはそのようでしかありえない存在として知覚された現実が新たな現実へと移行するのである。そしてはじめて知覚現象ということが成立し、主体と客体との均衡状況ということが知覚するということへの最大限の明視性として現出するのである。これが空間の視覚化である。 「空間の表皮に向けて」というテーマの作品は、ほとんどが野外において展開されたものであり、海岸のような空間の無限性をもつ場所(自然)での作品である。

 崇高な力学で生成している自然の営為ともいうべき世界にあっては、みるという始原的な行為とその世界との呼応性の中心においてかろうじて世界に接することができる。そのゆるされた地平はほんの微かな靄のような薄い皮膜として表れ、なかなか透明な地平を意識させてはくれない。だが作品をとおしての行為ということは、実存としての重さを背負いながら大いなる精神の反復運動として身体がその世界の典型的な構造へと参加させられるとともに、世界に対する意識が転調するように再構成される。それは中性的な位置としてしか言いようのない神秘的な存在として、世界と私との連続性のなかに成立するのである。眼前の現実としての世界の表皮に触れることは、空間の表皮に向けて悠遠で永続的な行為なのである。








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